3.軽く見られた1854年の江戸の防衛

  日米和親条約調印を終え神奈川沖に停泊していたペリー提督は、1854年4月、日本側の強硬な反対と抗議にも拘わらず、水深の許す限り江戸に接近しようと艦隊を移動させました。その時の模様について遠征記は次のように記しています。

蒸汽艦2、3隻もあれば破壊可能!

 


 江戸の町の前方の海辺全般にわたって、一列の高い柵があるらしく、それは短艇や小舟を通すために時々開くのである。これらの柵が、洗い流す波から上陸所を保護するために設けられたのか、または攻撃から江戸を防護するために設けられたのかを判断することは不可能だった。しかし、恐らくは我が艦隊来訪の結果設けられたもので、アメリカ人たちが無理矢理に上陸しようとする場合に、武装した短艇が近づくのを防ぐためのものであったろう。
 しかしながら、次の一事だけは全く確かだと思われた。即ち、甚だ喫水の浅い、そして最大の口径をもつ大砲を搭載した蒸汽艦2、3隻をもってすれば、江戸の町を破壊することができる一事である。  

「お台場」は黒船への防衛対策

 今東京の人気スポットとなっているお台場、実は1853年の黒船来航後、幕府が江戸防衛用に品川沖に急造した大砲用の台場(砲台跡)が起源となっています。老中阿部伊豆守はじめ台場建造に携わった幕府の関係者の内の誰が、今日の「お台場」の賑わいを予想したでしょうか。