太平洋横断
1860年1月に米国政府が提供した巡洋艦ポーハタン号に乗り込んだサムライ使節団は、初めて日本人が操船する咸臨丸の護衛の下、37日かけて太平洋を横断しサンフランシスコに到着しました。そこから一行はパナマ地峡を鉄道で横断した後キューバに到達し、再び船でワシントンに向かい、そこから最後の訪問地ニューヨークを訪れました。
米国の盛大な歓迎
遣米使節団の中核は正使の新見豊前守正興(しんみぶぜんのかみまさおき)、副使の村垣淡路守範正(むらがきあわじのかみのりまさ)、目付の小栗豊後守忠順(おぐりぶんごのかみただまさ)の三氏であり、彼らの首都ワシントン訪問は一大行事となりました。一行を接遇するため米国政府は5万ドル(現在の価値で約150万ドル)の予算を割り当てています。一行は3月28日にブキャナン大統領を公式に表敬し、その後ワシントンを3週間視察した後、ボルチモア、フィラデルフィアを経て6月16日に最後の訪問地ニューヨークに到着しました。各訪問地では使節団に対する敬意を表明するために地元の名士が歓迎パーティやレセプションを開催しましたが、そこには使節の伝統的な正装、髷、そして、中でも優雅な日本刀に魅せられた大勢の市民が詰め掛けました。
米国の新聞各社は固唾を呑んで遣米使節団の詳細な動向を取材し続けましたが、当時の世相を反映し、当初の各社の主たる関心の対象はこの遠方からの訪問者が西欧文明と初対面して示す畏敬の念であり、報道もその点を強調する傾向にありました。しかし、そのような姿勢は、彼らが使節一行の上品かつ丁寧な立ち居振る舞いに触れるに従って変わっていったそうです。報道関係者の中には、寧ろ使節一行に対する一部民衆の下品な行動に幻滅し、一行と米国市民のどちらがより礼儀正しいかを問いかけた人もいました。当時のハーパー・ウイークリー誌には「米国には疑いなく紳士・淑女が存在する。しかし、米国訪問中の日本使節団一行が紳士・淑女に会い見舞える機会は来るのだろうか。野蛮で野放図な振る舞いを行うのは常に米国人ばかりではないか。」との一文があります。
ニューヨーカーの暖かい歓迎を受ける一行
遣米使節団が最後の訪問地である当地ニューヨークを訪れたのは1860年6月のことで、ここでも一行は街を挙げての大歓迎を受けました。マンハッタンでは、一行に敬意を表しブロードウェーでパレードが催されましたが、この時日米両国の国旗が各所に掲げられたブロードウェーは50万人の観客で溢れかえり、ビルの窓から身を乗り出したり電信柱に登って見物する姿も見受けられました。パレードは、ダウンタウンからユニオン・スクエアに至るコースを行進し、最終地点では軍による閲兵式が行われました。夜にはニューヨーク市主催のダンスパーティも開催されています。パレードには著名な詩人ウォルト・ウイットマンも訪れており、パレードについてこの詩人が記した詩は彼の詩集「Leaves of Grass」に残っています。パレードの他、使節団一行は市長との会見、市内視察等を行いましたが、その間一行に関する演劇・歌が上演されたり、土産物が売られたり、「日本人(Japanese)」と名づけられたカクテルが人気を博したり、1860年夏のニューヨークは日本で溢れかえりました。
この150年前の日本人とニューヨーカーの出会いこそが今日の良好な日米関係の幕開けです。皆様と共にこの遣米使節団の訪問を記念する特別な年をお祝いしていきたいと存じます。