1. 密航を企てた吉田松陰への高い評価

 

吉田松陰といえば、その後の日本の歴史を知る現在の私たちにとっては余りにも有名な人物です。兵学者であった松陰は、欧米列強に対抗できる日本国家をいかにつくるかを探求し、その目的のために命を賭して密航を企て、その結果、1859年、29歳の若さで刑場の露と消えました。当時ほとんど無名と言って良い、ましてや偽名を使って密航を企てた吉田松陰を当時の米国艦隊関係者がどのように見ていたか、この遠征記は非常に興味深い記述をしています。
 1854年、日米和親条約を締結したペリー提督は下田に回航し、同地組頭黒川嘉兵衛と条約をどのように実施していくか具体的な事項の交渉を行っていました。そのような中で、この密航事件が発生しました。
(以下、遠征記訳文から引用、なお、小見出は当館で付したもの)

歴史的な接触
 艦隊乗組員の一団が下田の郊外を越して田舎に入り込んだ。その時、二人の日本人がついて来るのを発見した。最初は密偵が監視しているのだろうと想像したので、注意を払わなかった。しかし、その二人は密かに近寄ってくる様子で、話しをする機会を求めている様子だったので、アメリカの士官達は二人が近づいてくるのを待った。話をしてみるとその日本人が地位と身分とのある者であることが分かった。二人とも相当の身分を表す二本の刀を帯び、立派な金襴の袴をはいていたからである。彼らの態度には上流階級特有の慇懃(いんぎん)な洗練さがあったが、明らかに安心しきっていないような、何かやましいことを行おうとしているような人がもつ気後れの様子が見てとれた。彼らはあたかも、自分たちの行動を見張っている同胞が近くにいないか確かめるように、密かに目をあちこちに配り、それから士官のひとりに近づき、その時計の鎖をほめるような振りをして、畳んだ紙を上着のポケットに滑り込ませた。彼らは意味ありげに唇に手をあてて、秘密にしてくれと懇願し、急いで立ち去った。 

松陰の手紙
松陰の渡した手紙は艦隊のウィリアムス通訳により逐語的に翻訳されました。その内容は、概略次のようなものでした。

 自分たちは江戸の学者である。自分たちの学識は乏しく、・・・・武器の使用に熟練せず、兵法、軍律を議論することもできない。自分たちは様々な書物を読み、噂により欧米の習慣と教育とを多少知っており、長年の間、五大陸を周遊したいと望んでいたが、外国との交流を禁ずる法律のためこのような希望は叶えられていない。幸いにも、貴下の艦隊が来航し、長期間滞在しているので、自分たちは・・・入念に調査する機会を得、あなた達の親切と寛仁とを十分確かめ、他人に対するあなた達の顧慮をもよく確かめ、長年の思いが再び燃え上がった。だから、艦隊が出航する際には、我々もいっしょに連れて行って欲しいとの密かな自分たちの願いをあなたに伝えたい。(略)もし、あなたが私たちの願いを検討してくれるならば感謝を忘れない。いずれにしても、鎖国の禁令は未だに存在しており、今回の企てが漏れてしまえば、捕えられ即刻死刑に処されてしまう。このような結果は、あなた達が持つ深い人道と親切の心とを大いに悲しませるものとなろう。(略)したがってこのような重大なる生命の危険を避けるために、出航するまでは、自分たちがこのような過ちを犯すことを、口外しないで欲しい。

決行
 手紙を受け取った翌夜午前二時頃、ミシシッピー号の当直士官は、舷側についたボートからの声に驚かされた。舷門に行ってみるとすでに船側の梯子を登った二人の日本人を発見した。話しかけると乗船を許可して欲しいと手真似をした。
 彼らは、この船に留めて欲しいと強く望んでいるらしく、乗ってきた小舟がどうなるかも構わず、それを投げ捨てるつもりとの意志を示し、海岸に帰らないという決心をはっきりと示した。ミシシッピー号の艦長は、旗艦に行くようにと指示した。彼らは小舟に引き返して直ちに旗艦へと漕ぎ去った。港内の波が高かったために、多少の困難をしながら旗艦に到着した後、梯子を登るか登らない内に、彼らの小舟は漂い去った。
 士官は彼らが現れたことを提督に報告した。提督は、両人と相談させるため、そして訪問の目的を知るために、通訳を派遣した。彼らは率直に、自分たちの目的は合衆国に連れて行って欲しいということ、世界を旅行し見聞をしたいということだと打ち明けた。 そのためこの二人が海岸で士官に手紙を渡した者であると分かった。小舟に乗ってきたため、ひどく疲れ切っているようであった。彼らが立派な地位の 日本の紳士であることは明らかだが、その衣服は旅にやつれたような風に見えた。二人とも二本の刀を帯びる資格がある者で、一人はその時まだ刀を一本帯びていたが、他の三本は小舟の中に残してきたのであり、小舟と一緒に漂流していった。

 
提督の拒絶
 彼らは教養ある人達で、漢文を流暢に書き、その態度も丁重で極めて洗練されていた。提督は来艦の目的を知ると、自分は日本人を合衆国に連れて行きたいと切に思うが、二人を迎えることができないのは残念であると答えた。
 提督は、彼らが政府からの許可を受けるまで拒絶せざるを得ないが、艦隊は暫く下田に滞在している予定なので、許可を求める十分な機会があると伝えた。二人は提督の回答を聞いて大いに困惑し、陸に帰れば斬首されると断言し、船に留めてくれと熱心に懇願した。しかしこの懇願は拒絶された。長い間議論が行われた。その間彼らはあらん限りの有利な議論をし、アメリカ人の人道心に訴え続けた。結局、一隻のボートが下ろされ、送り返されることになった。彼らはそれを少しばかり穏やかに拒んだが、自分たちの運命を悲しみつつ悄然と艦をおり、そして陸に送り返された。

拒絶の理由
 提督が自由に自分の感情にしたがって行動していたら、好奇心からこの日本人を喜んで艦内にかくまったことだろう。しかし、曖昧な人道心以上に他の重要な点を考慮する必要があった。日本人の逃亡を黙認することは、日本の法律に反することであり、嫌々ながらも既に多くの重大な譲歩をした日本の諸規定に対して、あらゆる考慮を払って従うことが(米国艦隊側の)唯一の真実の政策であった。日本は、その国民が外国に出国することを死刑をもって禁じている。艦内に逃れてきた二人は、アメリカ人から見れば罪のない者と思われようと、彼ら自身の法律から見れば罪人であった。
 二人が述べたことを疑う理由がないとしても、彼らのいう動機とは別の不純な動機に動かされたのだということもあり得ることだった。アメリカ人の節義を試す謀略であったかも知れないし、そう信じた人もいた。
 (二人が日本側に捕らわれた後)提督は、自分がその犯行をいかに些細なものと考えているかを役人達に印象づけようと注意深く努力をして、その犯行に課せられる刑罰が軽くなるよう願った。

アメリカ人が吉田松陰にみた日本の前途
 この事件は、日本の厳重な法律を破り、知識を得るために命を賭けた二人の教養ある日本人の烈しい知識欲を示すもので、興味深いことであった。日本人は疑いなく研究好きな国民で、彼らの道徳的、知的能力を増大させる機会は、これを喜んで迎えるのが常である。この不幸な二人の行動は、日本人の特質より出たものであったと信じる。国民の抱いている烈しい好奇心をこれ以上によく示すものはない。日本人の志向がこのようなものであるとすれば、この興味ある国の前途は何と実のあるものであるか、その前途は何と有望であることか。

捕らわれた二人の日本人
 数日後、士官の一隊が郊外を散歩しているとき、偶然町の牢獄の前に出た。そこにはあの不幸な二人の日本人が、甚だ狭い一種の檻の中に拘禁されているのを認めた。哀れな二人は、艦隊訪問が露見するや直ちに追跡され、二、三日後には捕らえられて獄に投ぜられたのである。彼らは自分達の不運を、非常に平然と耐え忍んでいるらしく、アメリカ士官達の訪問を大いに喜んでいるようであった。アメリカ士官達の眼から見ると、彼等は明らかにうまく脱獄したいと思っているようだった。来訪者の一人がその檻に近づくと、日本人は板切れに次のようなことを書いて渡した。それはいかなる冷静さをもってしてさえも動揺せざるを得ないこのような場合に際して、哲学的安心立命の境地にある非凡な例であるから、ここに掲載する価値がある。
(以下板切れの文の訳) 

 「英雄一度その目的を失えば、その行為は、悪漢、盗賊の行為と考えられる。吾等は衆人の目前において捕らえられ、縛められて、永く拘禁されている。村の長老、役頭等の吾等を遇することや侮辱的にして、その圧制は実にはげしい。されど吾等自ら顧みて内に一の疚しきところなき故、今や実に英雄果たして英雄たるや否やを試すべき時である。六十余州を踏破するの自由だけでは吾等の志を満足させることができない故、吾等は五大州の周遊を企図した。これ吾等が多年の心願であった。吾等が企図は突如としてつまずき、狭苦しい檻中に入れられ、飲食、休息、座臥、睡眠も困難である。吾等如何にしてこの中より脱出し得べきか。泣かんか、愚人の如く、笑わんか、悪漢の如し。ああ吾等沈黙し得るのみ。 Kwansuchi Manji(吉田松陰の偽名) Isagi Kooda(金子重輔の偽名)
     
ペリーの気持ち 
提督は二人の日本人が投獄されているとの報を受けると直ぐ、司令官副官を陸上に派遣して、二人が来館した者と同一人物かどうかを非公式に確かめさせた。しかし、牢番達によると、その朝、二人は江戸からの命令により江戸に送られたとのことだった。二人はアメリカ艦隊に出掛けたために拘禁され、組頭はこの事件を処分する権限がなかったので、直ちに幕府に報告し、幕府は囚人を迎えに寄越したもので、二人はその裁きの下にあった。哀れな二人の運命がどうなったかはまったく確かめることができなかったが、当局が寛大であり、二人の首をはねるという極刑を与えないことを望む。なぜなら、それは矯激にして残忍な日本の法律によれば大きな罪であっても、我々にとってはただ自由にして大いに讃えるべき好奇心の発露にすぎないように見えるからである。また、付言すべき喜ぶべきことは、提督が質問した時、当局者は、重大な結末を懸念する必要がないという保証を与えてくれたことである。

(注)下田獄の後、松陰は、江戸、萩(謹慎処分)、江戸と牢獄を転々として、1859年、処刑されました。この間、萩では近隣の青少年の教育をはじめました。これが松下村塾です。