7.確執! シーボルトとペリー

 江戸末期、出島のオランダ商務官医として1823年から6年間、日本に滞在し、日本に近代西洋医学を伝え、日本の近代化、ヨーロッパにおける日本文化の紹介に貢献したシーボルト(現在のドイツのバイエルン州生まれ)の名を知る人は、日本には大変多いと思います。しかし、この日本で広く知られた二人、シーボルト医師とペリー提督との間に日本訪問を巡って存在した確執を知る人は、あまりいないのではないでしょうか。
 (注)シーボルトは国外持出禁止の日本地図を受け取った罪で、日本を追放されました。

シーボルトの日本追放
  遠征記は、シーボルト博士が日本滞在中の観察結果を基に日本についての著述をしたこと、それが彼の先輩たちのものを全部束ねたものより大きなものであったことを述べた後、次のように記しています。

 シーボルトは出島のオランダ商館長と共に江戸に赴いた。日本の天文学者高橋作左衛門が法律を犯し、その当時日本で製作された地図の写しをシーボルトに提供した。(略)シーボルトがオランダ生まれではなかったという事実から、この出島の医者はロシアのスパイではないかという疑いが生じた。この結果、調査は一層厳重となり厳格な処置が執られそうであった。シーボルトと友人であり、接触した人は全部投獄された。ただ一人例外があった。この例外の人物は、政府の証人とされた。この人は、友情のため証人としての誓約を破って、シーボルトに何が起ころうとしてるかシーボルトに密かに知らせた。この警告があったため、シーボルトは書き付けが押収され身柄が拘束される前に、その内の最も重要な文書を無事隠すことができ、その写しをつくって政府役人の使用に供するとが出来た。(略)調査は約一年続き、シーボルトは日本を追放された。この物語が詳細まで真実であるか否かは別として、少なくともこのことはヨーロッパ大陸に流布し、我が遠征隊の出帆以前に右のような形で合衆国に達していたのであった。

シーボルトの遠征艦隊への参加を拒否


ペリー提督が司令官に任命された後、シーボルトは同遠征隊の一員として雇われたいと申し出た。彼は非常に日本に行きたかったので、自分の望みを達するために非常に大きな影響力を有する人物を動かした。ペリー提督は、いくつかの理由から、特に追放されたと一般に信じられている人を日本に連れ帰ったために自分自身が累を及ぼされたくないし、自分の使命の成功を危うくしたくなかったので、あらゆる影響力を持つ人、最高の権勢家からの推挙も拒絶し、シーボルトを同艦隊中のどの舟にも乗り込ますことを積極的に拒絶しつ続けた。

シーボルトへのペリー艦隊の強い反発
 日米和親条約が締結されたことが世界に報告された数ヶ月後、シーボルトはボンで「あらゆる国民の航海と通商とのために日本を開国させようとしたオランダとロシアの努力に関する信頼すべき記録」を発表しました。これに対して、遠征記は次の通り記しています。

 我々はシーボルトのためにその公刊を惜しむのである。それは何ら科学的な目的に役立たないものであり、著者が以前に発表した価値ある文書において知らせていること以上には、日本について何一つ新しい事実さえも記していない。それは、明らかに抑えに抑えた苛立たしい虚栄心の産物であり、また、明らかに二つの目的を目指したものである。一つは、著者自らに栄誉を与えることであり、他の一つは、合衆国並びに日本遠征隊を非難することである。吾々は、フォン・シーボルト博士の日本に関する優れた著書を高く評価しながらも、最初の目的を達成するために行われた利己主義的、虚栄心、自尊の現れを大いに遺憾とするところである。また、第二の目的を達成する際になされた詭弁と無礼を非難せずに見逃すことはできない。その著書全体にわたる主旨と精神は、その冒頭に見いだすことができる。即ち、その書物の第三項に次のような記述があるからである。「さて、我々は、日本を開国させたことに対し、アメリカ人にではなくロシア人に感謝しなければならない」と。極めて最近までロシアが日本と条約を締結できなかったということを思い出すとき、読者は多分次のように信じたに違いない。即ち、鋭敏な日本人が、シーボルトをロシアのスパイであると疑って追放したのは、当たらずとも遠からずであろうと。