米国初代公使ハリスとNY市立大学

ペリー提督の浦賀来航によって日米の関係が始まりましたが、永い交渉の末、より具体的な両国関係を結実させたのはタウンゼント・ハリスに他ありません。ハリスは初代の米国総領事として日本では知られていますが、ニューヨークにおいてもある歴史的に重要な役割を果たした人物として人々に記憶されているのです。

有名なニューヨーカーだったハリス

タウンゼント・ハリス(1804-1878)は、1804年にニューヨーク州北部のサンディーヒルという所で生まれました。青年期にニューヨークにやってきたハリスは陶器や絹の輸入商として若くして成功をおさめます。彼は政治にも関心を示し、特にニューヨークの教育システムに強い関心を持ち、1846年から2年間、ニューヨーク市教育委員会の理事長を務めました。  また、ハリスは、移民や貧民をも含む全てのニューヨーク市民を対象とした無料の大学の創設に尽力したことで有名です。この無料の大学は後年、ニューヨーク市立大学(City College)へと発展します。

初代駐日総領事:下田での生活と交渉

 1855年、ピアース大統領はハリスを初代の駐日米国総領事に任命します。中国貿易の経験と日本に対する並々ならぬ関心のあったハリスは、政治的にこの任命を働きかけてきたのです(ハリスはペリーの日本遠征隊にも参加を試みましたが、これはうまくいきませんでした)。
1856年、ハリスは下田に着任しますが、ここで彼は日本との通商関係を築くために永い交渉を始めることになります。将軍や幕閣と直接交渉するために江戸に駐在することが必要でしたが、その駐在許可を得ることがハリスが最初に直面した問題でした。彼は結局14ヶ月もの間、下田に滞在することになりますが、通訳のヒュースケン以外には話し相手もなく、病気になることも度々でした。
彼らは最初の総領事館として使われた下田の玉泉寺を住まいとしていました。ハリスは時間がある時は下田の田舎道を散歩したり、野菜を植えたり、桜の木の手入れ、鶏や豚等家畜の世話などをして過ごしました。やがてハリスは散歩の途中で出会う下田の人々に心を惹かれ、そうした出会いを楽しむようになりました。
幕府の役人たちとの長い交渉に彼はひどく失望しましたが、相手側の役人たちの立場も極めて困難なものであるということを常に考え、冷静に交渉に臨んだことはよく知られています。ハリスの残した当時の記録には、彼が日本人とその文化に敬意を払い、下田での生活を心底楽しんでいたことが示されています。ハリスは自らの使命を真剣に考えており、日米両国の将来の繁栄によって彼自身の役割も記憶されるだろうと考えていました。下田に星条旗を掲げた際、ハリスは「将来、我が着任の瞬間が悔やまれんことを」と述べています。

「唐人お吉」とハリスの話

ハリスは生真面目で知的でしたが、常に愛想のいい人物ではありませんでした。彼が犯した若い頃の無分別な行いが、後年ハリスを厳格な禁酒主義者にしたといわれていますが、当時日本を訪れた一部の西洋人のように日本の文化を判断する際に極端な道徳主義者になるようなことはありませんでした。
有名な話ではハリスがある美しい芸者と深い仲になり、やがて彼女は蝶々夫人の悲劇のごとく自殺を図るというものですが、現在ではこれが作り話であることは多くの歴史家の共通認識となっています。実際、吉(きち)という下田の女性がハリスの住まいで下働きをしていた事実がありますが、深い仲云々という部分は作り話のようです。しかし、このストーリーは未だに語り継がれており、日米両国で有名です。1958年に作成されたジョン・ヒューストン監督の「The Barbarian and the Geisha」(野蛮人と芸者)の中でも、ジョン・ウェイン演じるハリスの相手として安藤永子演じるお吉が登場しています。

日米通商条約交渉

1857年、ハリスはようやく江戸に出ることを許されます。下田の人々によって作られた手作りの星条旗を掲げ、公式の使節として彼は200マイルの道程を江戸に進みました。当日、東海道は幕府によって一般の通行が規制されましたが、ハリスが江戸に着く頃は多くの群集が米国総領事の到着を一目見ようと集まっていました。  1857年12月7日、いくつかの事前会合を経た後、ハリスは将軍に謁見することを許され、その席上、彼は大統領からの親書を提出し、日本との友好関係を希望する旨述べました。将軍を前にしながら、穏やかで落ち着いたハリスの態度は同席した日本人に感銘を与えました。
翌年7月29日、日米通商条約が署名され、日米間の貿易が始まり、神戸・横浜が開港されることになりました。また米国人はこれらの2港と江戸に住むことが許されました。ハリスは軍事力を使うことなく、自らの決断力と幕府の役人達の協力を得て、条約署名という使命を果たすことに成功したのです。
まもなくブキャナン大統領はハリスを駐日公使に任命し、下田から江戸に移って、麻布の善福寺を米国公使館としました。ハリスは公使として3年勤務しました。離任の際、日本側はハリスに大変感銘を受けたとして、米国政府に任期延長を求める書簡を送りました。


今も語り継がれるハリスの功績

 ハリスの日本滞在中に書き残した書状や所有物等は、ニューヨーク市立大学の図書館に保存されています。その中にはハリスの日記や、公式文書、下田の総領事館に立てた米国旗もあります。今でのニューヨーク市立大学と下田市の交流は続いており、過去15年間、下田市の代表団が毎年同大学を訪問しています。
ブルックリンのグリーンウッド墓地にあるハリスの墓には、日本の石の灯篭が建てられ、桜の木も植わっています。墓石には彼の功績と通商条約締結の成功を称え、「アメリカ国民だけでなく日本国民にも満足を与えた」と記されています。

参考文献: Yankees and Samurai, Foster Rhea Dulles, Harper & Row Publishers, New York, 1965.