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ヘルスウィークにおける「今まで間違っていた“痛みの医学”」講演会

2008年6月25日

日時:5月23日18時00分〜19時30分
講師:渋谷欣一医師
元ニューヨーク医科大学麻酔学教授、現名誉教授
概要

痛みは人間の歴史が始って以来ありましたが、手術に麻酔薬がつかわれるようになったのは160年前のことに過ぎず、手術以外の痛みの治療が現在のようになってきたのはここ数十年のことです。 今回の講演では、痛みの治療がどうして現在の様に変わってきたのか医学の歴史をふりかえり、また現在の痛みの医療、医学の問題点を患者の視点からさぐります。“芸術家のみた痛み” “手術に関する痛み”“昔はなぜ手術や麻酔で人が死んだか?”“難治性の痛みの原因”“漢方針灸がなぜ痛みに効くか”“ペインクリニクとは?”“モルヒネの再発見”““慢性痛患者の実態”“今まで間違っていた痛みの医学”などの話題をとりあげます。約 60枚のスライドを用意しました。

  1. 芸術家、作家は“痛み”をどの様に表現してきたか? (スライドの説明)
    痛みは他人に伝えがたい!
    Baruch Elronがながく脚の痛みをうつたえ、ついに下肢を切断して退院後の絵です。落ち葉は体の機能が凋落していることを象徴しており、叫びは 痛みを自分の中に閉じこめてはいけませんといっているようでもあり、世間に痛みについての関心を呼びかけているようでもあります。ヨーロッパのペイン学会のポスターに選らばれました。
    George Dergalis “Anguisuish”
    “痛みは体の感覚か心の痛みか?”の問題を提起します。
    Thomas Rowlandson (麻酔薬のないときの下肢切断) "The greater the pain, the greater must be our confidence in the power and energy of life,"
    見ている人たちは 患者に同情しているようにはみえません!
    三国志の英雄 関羽 肘の骨を削る手術を碁を続けながらうけたという話:
    “痛みは 我慢せよ” は 戦時下の日本陸軍での教訓でした。
    電気麻酔 
    アヘンではひとが死にました。痛みを和らげるために電気刺激がつかわれました。
    痛みと宗教:
    痛みや貧困苦難が多かった時代では 痛みや苦難からおこる心の苦しみを和らげるために宗教が大きな役割をはたしました。痛みは神様が人間にあたえた試錬でありそれをのりこえることにより天国へ行けると信じられていました。
    Gian Lorenzo Bernini: The Ecstacy of Saint Terresa (1645-52) 
    殉教死するSaint Terresa の表情には痛みはなく、恍惚境がみられます。
    Guido Reni Saint Sebastianの処刑
    血が一滴も描かれてなく、若い親衛隊長の肢体には不思議な美しさがあります。 (三島由紀夫の仮面の告白)

  2. 1846年にエーテル麻酔がはじまった。昔の麻酔はどんな麻酔であったか? 何故手術や麻酔でひとが死んだか?
    世界最初の麻酔による死亡例の裁判記録。
    そのご約100年間 全身麻酔の手術で死亡した場合“仕方がない”と考えられ麻酔死が起訴されることは少なかっ歴史をふりかえります。

  3. 麻酔で眠っている患者は手術の痛みを感じているだろうか?”
    1960−70年ごろ:
    先端医療革命の始まり、日本の大学に麻酔学講座が開かれ始めました。1960年ごろは麻酔事故が非常に多くありました。1960年の美智子妃のご出産は難産でありましたが無麻酔でした。1970年ごろの心臓手術は“手術は成 功 患者は死亡”。この問題を解決に導いたのは“麻酔薬を使わない大量モルヒネ麻酔”でした。 麻酔が安全になってきた背景に、私ども麻酔科医がもっていた“麻酔で眠っている患者は手術の痛みを感じているだろうか?”という疑問にたいして、麻酔で眠っているようにみえるときでも、患者のからだは手術の侵襲を感じていることが解り、そのような手術侵襲を防ぐ麻酔法が1990年頃から見つかったことがあります。それは、従来の麻酔薬を主体としないでオピオイドを主体とした全身麻酔、局所麻酔を併用した全身麻酔でした。そのため、患者さんは、手術がすんで麻酔から覚めた時点でも痛みはなく、術後の痛みもなく、はやく退院できて普段の生活に戻れるようになりました。この間の事情を約10枚のスライドでご覧いただきました。

  4. 痛みの医学会(International Association of the Study of the pain)の誕生(1973)

    私ども麻酔科医が、手術中や術後の痛みをコントロールした医療方法を、癌 の痛みや、難治性の痛みの治療に応用してみようという動きが始まりました。 従来、“痛み”は病気〔壊れた機械〕の症状であり、病気を治せば痛みは治る”と考えられていました。〔壊れた機械〕を直す医学が非常に進歩しましたが壊れた機械を直せない場合があります。また原因のよくわからない“痛み”もあります。そのような 難治性の痛みに私どもは“神経ブロック”を使用してみました。1960年代になって、手術以外の難治性の痛みに神経ブロックを使用するペインクリニク(疼痛外来)が病院に出来始めました。

    ペインクリニクは最初麻酔科医だけで運営されていましたが、シアトルの麻酔科教授であったBonica先生は“痛みの研究治療は麻酔科医だけでなく、神経内科、精神科、理学療法科などの医師をふくめて総合的に行うべき”ことを主張し、1973年に、痛みを研究する世界規模の学会 International Association of the Study of the pain が設立されました。

  5. 1958年に私が麻酔学の研修医のときに師匠の指導をうけてJ.of American Medical Associationに発表した論文は、卒中後におこる難治性の痛み(Reflex Sympathetic Dystrophy、神経因性疼痛とよばれます) に交感神経節ブロックを薦める報告でした。脳卒中後に肩や手がはれて、痛くて動けず、マッサージや鎮痛薬、理学療法も効果なく、患者はdisability と痛みでdepressionになっていました。このような患者に交感神経ブロックを数回続けますと、痛みや腫れが少なくなり、リハビリが可能となり、手肩の機能がかなり回復しました。
    難治性疼痛にたいして 交感神経ブロックがなぜ有効であったか?
    当時どの様に考えていたかについて、この50年前の論文を読みかえしてみました。 「脳卒中後に時々起こる難治性の疼痛を早期にみつけて治療することが大切 である。交感神経ブロックが、これらの患者の手や肩の機能の回復に直接貢 献したかどうかはあきらかでない。それよりも、交感神経ブロックが激しい 痛みや腫れを和らげたので、患者は手や肩のリハビリが可能になり、自然に 治癒がおこったと考える方が妥当であろう」と書いております。50年たっ た現在でも、この考え方は正しいと思います。

  6. 先天的に痛みを感じない患者の手の写真をご覧いただきます。

    痛みには “個体を護る”働きがある一面、痛みは体を損ないます。個体を護る為に 末梢を切り捨てます。

  7. 難治性の痛みの原因

    50年間の 痛みの医学の進歩として、“激しい痛み”がいかに悪いことであるか、痛みが痛みを呼び、痛みのある組織では交感神経の亢進がおこり、 循環が悪くなり、組織の治癒は遅れ、痛みをおこすブラドキニン、プロスタ グランヂンなど増え、痛みの神経が更に敏感になる悪循環がおこることが明らかになってきました。痛みを無くしなければ傷の治りも遅く、あとで慢性の難治性疼痛に繋がります。その医学的なメカニズム(痛みの可塑性)が明らかになってきました。

    • “痛みは小火のうちに消しましょう。火事にしてはいけません。”
    • “痛みを我慢してはいけません”
    • “痛みを小火のうちに消さなっかことが あとで慢性の難治性疼痛に繋がります“
    • 以上のような教訓をサポートするデータが集積されつつあります。
  8.   
  9. 1970年代 漢方、中国医学への興味

    1969年に ニクソン大統領の中国訪問があり、その後、中国の鍼麻酔について、米国で興味がひろがりました。1970年代になって、日本や米国の ペインクリニクで神経ブロックと鍼(acupuncture)を併用する試みがあり、NIHでは 鍼麻酔に関する研究会を始め、鍼治療の免許制度が始まりました。

  10. 1979年に発表した私の論文 K. Shibutani. Similarities of Prolonged Pain Relief Produced by Nerve Block and Acupuncture. Acupuncture & Electro- Therapeut. Res, Int.J Vol.4 ,9-16, 1979では、神経ブロックと鍼治療の効果は似ていることを発表しました。

  11. 鍼灸治療は何故効くか?

    米国で鍼治療が興味をもたれ、医学的な研究がはじまってから約30年にな ります。最初は 暗示またはプラシボ効果によるものではないかと疑われましたが、針治療は、局所の循環を改善し、痛みのあった局所の治癒に貢献することが知られております。針治療による鎮痛効果のメカニズムについては鎮痛効果のあるエンドーフィン、NOが血中に検出され、また脳では 鎮痛作用のある脳の部分が、活性化することが 最近ではPositive Emission Tomography などで説明されるようになりました。鍼麻酔や指圧 マッサージの治療効果のメカニズムについては 西洋医学的な方法で検出されていないメカニズムがあるかもわかりません。

    鍼治療の効果と 神経ブロックの効果は似ていると私は報告いたしましたが、 それは、鍼治療と神経ブロックの鎮痛メカニズムが同じであるとゆうことで はありません。痛みによっておこる悪循環を 鍼治療も神経ブロックもどこ かで断ち切って 痛んでいる組織を治癒に向かわせるものと思います。

  12. 帯状疱疹(post herpetic neuralgia) について一言触れておきたいとおもいます。帯状疱疹といわれるこの神経因性疼痛は 慢性になると激しい痛みが 何年も続くことがあり 鎮痛薬や神経ブロック、鍼治療がなかなか効きません。そのため、ひりひりする紅斑がでたら2,3日以内に抗ウィルス薬(Valtrex など)を服用し、もし痛みが激しい場合は 早期に神経ブロックをしてもらって 痛みが根ずかないようにすることが望まれます。 昨年から ワクチン(Zosta vax)がFDAで許可になりました。

  13. 主な鎮痛薬
    • パラセタモール(Acetoaminophen(Tylenol)
    • NSAID系薬剤 : Aspirin, ibuprofen(Advil, Motrin)
    • COX-2抑制剤  Cerebrex, Ultracet
    • 抗うつ剤や抗痙攣剤
    オピオイド:
     モルヒネ コデイン・オキシコドン・ハイドロコドン・フェンタニル

  14. 癌の痛みの治療:最近の進歩

    私ども麻酔科医が、手術や術後の鎮痛で得られた経験が生かされて、癌の痛みの治療は大変進歩しました。WHO〔世界保健機構〕は、次のように癌の痛みに対する対策の啓蒙をしております。

    「癌の痛みは仕方が無いと考えない。 癌の痛みには有効な治療法がある。 癌患者には痛みを除去するために痛み止めを要求する権利がある。医師はそれを投与する義務がある。 有効な治療法が存在するのに、それを実施しない医師には弁明の余地がなく、 倫理的に許されない。WHOレポートより」

  15. モルヒネの再発見

    アルコールと モルヒネの違いについて 英国の作家de Quinceyの“或アヘン飲みの告白”から興味ある文章を紹介します

    Confessions of an English Opium-Eater Thomas de Quincey (1785-1859) First, then, it is not so much affirmed as taken for granted, by all who ever mention opium, that it does, or can, produce intoxication. Now reader, assure yourself, that no quantity of opium ever did, or could intoxicate. I affirm opium is incapable of producing any state of body at all resembling that which is produced by alcohol; it is not in the quantity of its effects merely, but in the quality, that it differs altogether. The pleasure given by wine is always mounting, and tending to a crisis, after which it declines: that from opium, when once generated, is stationary for eight or ten hours: But the main distinction lies in this, that whereas wine disorders the mental faculties, opium, on the contrary, introduces the most exquisite order, legislation, and harmony. Wine robs a man of his self possession: opium greatly invigorates it. Wine unsettles and clouds the judgment,: opium, on the contrary, communicates serenity and equipoise to all the faculties, active or passive: and with respect to the temper and moral feelings. the sudden development of kind-heartedness Men shake hands, swear eternal friendship, and shed tears -- no mortal knows why: and the sensual creature is clearly uppermost. But the expansion of the benigner feelings, incident to opium, is no febrile access, but a healthy restoration to that state which the mind would naturally recover upon the removal of any deep- seated irritation of pain that had disturbed -----wine constantly leads a man to the brink of absurdity and extravagance; whereas opium always seems to compose what had been agitated, and to concentrate what had been distracted. In short, to sum up all in one word, a man who is inebriated, and feels that he is, in a condition which calls up into supremacy the merely human, but the opium-eater feels that the diviner part of his nature is paramount; that is, the moral affections are in a state of cloudless serenity; and over all is the great light of the majestic intellect.

    「アルコホールとオピウムの効果の違い。アルコールの効果は人格を欺 瞞 し、intoxicationをおこす。” オピウムは人を痛み、悩みから解放し て一点の曇りもないやさしい人格にしてくれる。Intoxicationではない」

  16. 手術の痛み、術後の痛みお産の痛み現在では殆ど問題はないようになりましたが、慢性の痛みの治療と医学には大きな問題があります。
    慢性痛患者の実態 アメリカでの調査(1997)
    痛みの続いている期間
    3年以上(72%)
    10年以上(34%)
    痛みの治療は効いているか?
     効いていない(47%)
    代替医療を用いているか?
    代替医療に頼っている (89%)
    慢性痛みで代替医療を利用する理由
    現代西洋医学による治療に満足できない
    現代西洋医学では患者を機械のように扱う
    病気、痛みの発生にはライフスタイルが関係していることがわかった
    病気の治療だけでなく QOLへの期待 
    痛みとQOLとは同じでない
    薬の副作用をへらす

  17. 痛みの医学の最近の研究で、従来の考え方が誤りであったことがわかりました。次に列記します。
    痛みに関する誤った考え方
    1. 痛みで死ぬことはない
    2. 鎮痛薬は体に毒である。従ってなるべく痛みは我慢した方がよい。
    3. 痛みがでたとき 鎮痛剤を使うと病気の診断をあやまる。
    4. 高齢者への鎮痛薬は少なくてよい。
    5. 痛みの原因が分からないとき“気のせい”と言う。
    6. 癌の患者の痛みは仕方が無い
    7. 癌の患者へのモルヒネ投与は麻薬中毒になる危険があり、また死期を早める。

  18. )患者と医者との関係の変化
    先端医療革命、医療費高騰、”managed care”、情報革命
    賢い患者とは?
    自分の体を一番よく知っているのは自分である
    健康を維持するのは(難治性の慢性痛にならないのは)自分のライフスタイルである
    急性の痛み1ヶ月以上にならないよう万全の対策をとる
        -代替医療をとりいれる
    良い医師を選ぶ  医師との疎通
        -“信じていない医者の薬は効かない”

  19. 健康な病者たち;
    芸術家、作家のみた痛み
    “優しさ”は痛みを和らげる
参考資料
“The Challenge of Pain” Melzack, R & Wall, P.D. Basic Book Inc. (1983)
“The Culture of Pain” David B. Morris. University of California Press (1991)
“The Path of Pain: 1975 - 2005” Harold Merkey, et al. IASP Press (2005)
“ NarrTive, Pain, and Suffering. Daniel B. Carr, et al. IASP Press (Seattle) (2005)
“ Clinical evidence for neural plasticity.” Anesthesiology 2006, 104:397-8
“痛みのサイエンス” 半場道子、新潮選書 (2004)
国立がんセンターがん情報サービス ganjoho.ncc.go.jp/
National Institute of Neurological Disorders and Stroke www.ninds.nih.gov/disorders/chronic_pain
(c) Consulate-General of Japan in New York
299 Park Avenue 18th Floor, New York, NY 10171
Tel: (212)371-8222
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